喰らいつく狼の群れ

本を読んで考えたことを書きます

ゾンビとしてのサバイバルガイド―遠野遥「破局」

TL;DR

  • 人類みなゾンビ
  • ゾンビでもなんとか生きていくしかない

『破局』のあらすじ

『破局』の主人公・陽介は実はゾンビである。ゾンビは、巧妙に人間に擬態し、一見順風満帆な大学生活を送っている。高校のラグビー部のコーチ、公務員試験、二人の女性との交際。物語の最後に、ゾンビは路上で人を襲い、破局は唐突に訪れる。

陽介がゾンビであることを示す13の特徴

ゾンビというのは(後述するように)もののたとえであって、陽介は映画に出てくるような腐った死体では当然ないのだけれど、作中において、陽介はゾンビとしての特徴を多く備えたキャラクターとして描かれる。

1. 自分で自分はゾンビであると明言している

ゾンビという表現は、私が勝手に選んだわけではなくて、作中で二度、陽介は自分はゾンビであると明言している。

一度目は、高校のラグビー部のコーチをしているとき。ラグビーは「ゾンビみたいに最後まで立ち上がり続けたほうが勝つ」。陽介は、高校で「現役だったとき、実際に自分をゾンビだと思いこむようにして*1」いたという。

二度目は、二人目の交際相手である灯との旅行でのこと。灯の強い性欲を満たすために、ホテルでゾンビ映画を観ながら、二人は一日中セックスを続ける。疲れた陽介の調子を気遣う灯に、陽介は「俺は何度だって蘇る*2」と語る。

2. 攻撃性が高い

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優しいゾンビもいるのかもしれないが、ゾンビというのは概して攻撃性が高い。陽介も善良な人間に見えて、実は高い攻撃性の持ち主だ。物語の最後には路上で人を襲うし、電車で見知らぬおじさんを威圧するし、ラグビーでは向かってくる敵にがんがんタックルを仕掛ける(もちろんラグビーのルールにおいては、このような攻撃は許されているのだろうが)。

3. 性欲が強い

(灯には及ばないが、)陽介はかなり性欲が強い。「セックスをするのが好きだ。なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ*3」。灯の前の、一人目の交際相手である麻衣子に対しても「もっとセックスをしたい。本当なら毎日したい*4」と感じていた。そして、ゾンビも性欲が強い。たぶん。

4. 肉を喰らう

ゾンビは肉を喰らう。陽介も肉が好きだ。野菜も食べろ。

5. 眠りの質が高い

性欲、食欲ときたら、三つ目は睡眠欲だが、陽介の眠りの質は高い。夜眠れないような心配事は全くない(と少なくとも本人は思っている)し、警官に捕まっても問題なく眠れるようだ。ゾンビの眠りの質についてはよく知らない。

6. 社会規範への意識

人間に擬態して社会生活を送るためには、規範を守ることはマストである。ゾンビとバレては大変だ。陽介は異常なまでに規範意識が高い。が、それはどこかズレていて奇妙だ。

7. 筋トレが好き

規範意識がいくら高くても、身体が腐っていたら、一発でゾンビとバレしてしまう。トレーニングで健康な肉体を獲得しなければならない。

8. 臭いに敏感

くんくん。

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9. 他者の視線

陽介は常に誰かに見られている。なぜなら、彼はゾンビだからだ。街中にゾンビがいたら、誰でも見るだろう。カフェの店員も、横断歩道を渡る子どもも、散歩している犬も、みんな陽介を見ている(と陽介は感じている)。

10. 笑いがぎこちない

ゾンビは感情を持たない。陽介の笑いはぎこちない。「こちらが笑うのを期待しているような話しぶりだったから、笑うのが礼儀だと思った*5」。「麻衣子は微笑んだ。私も真似をして微笑んでみた*6」。「何が面白いのかは、私にもわからなかった。とにかく笑えて仕方なかった*7」。「膝」という変わったあだ名をもつ陽介の友人は、お笑いサークルに所属している。

11. 話がつまらない

ゾンビというのはだいたい、正気を失ってうーうー唸ってるだけだ。陽介は会話こそ全うに成立するが、その内容はかなりつまらない(本人も自覚があるようだ)。作中で、カギカッコつきで陽介が話す場面はほとんどなくて、話したところで客観的に自明なことしか語らない。

12. 突然祈る

ゲームでキャラクターがゾンビ状態になってしまうと、教会で祈ってもらわないと回復しない。陽介は信仰を持たないようだが、なぜか突然祈り出すことがある。だが、この祈りは自分にも他者にも届くことはない。

13. 太陽の光に弱い

ゾンビは太陽の光に弱い。あえて太陽の「陽」の字を名前に使うことで、その弱点を巧妙に隠してはいるが、最後に陽介に破局をもたらす彼女の名前は「灯」だ。

ゾンビであることの意味、自分が自分でなくなること

この世はゾンビランド

いくつかゾンビの特徴を挙げたが、結局ゾンビであることは何を意味しているのか。そもそもゾンビとは何なのか。

すごくラフに言ってしまえば、ゾンビになるというのは、ある種の状態の変化である。

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人間というのは、心も身体も常に変化を続ける生き物だ。そして、100年後には全員死んで墓場でゾンビになって踊る。人間はゆるやかにゾンビ化していく。生きることはゾンビになる過程である。これは誰にも避けられない。

この意味において、(程度の差はあれ、)陽介も、灯も麻衣子も膝も、人類みなゾンビである。そして、ゾンビ化は死ぬまで止まらない。心も身体もどんどんゾンビになっていく。「彼らくらいの歳になると、人間の歯は自然と黄ばみゆくのだろうか。そうだとしたら憂鬱なことだ*8」。本当に憂鬱なことだ。

良いゾンビ、悪いゾンビ

だが、ゾンビになっても、路上で人を襲ってはいけない(とされている)。悪いゾンビは社会から排除されて、警官に捕まってしまう。ゾンビ化する自分と上手く折り合いをつけて生きていかないといけない。良いゾンビにならなくてはならない。

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陽介は、ゾンビ化することが、変化することが受け入れられなかった。大学時代は誰にとっても激動の時期だ。だが、陽介は変化する自分と向き合わなかった。公務員を目指しているが、その理由を考えたことはない。高校生のコーチをしているが、自身はどういうわけか大学ではラグビーから離れてしまった。筋トレを続けているが、その目的はよく分からない。なんとなく世間で良いとされているものにしたがっているだけで、自分でなにかを考えて選択することはない。

一方で、周囲の人間は変化していく。その変化が陽介には奇妙に映る。「私の知っている麻衣子は、決して終電を逃さない*9」。「この男は、もう私の知っている佐々木ではないのかもしれない*10」。「灯は笑顔のよく似合う子で、灯にはずっと笑っていて欲しいと私は願っていたはずだが、そういう認識で合っているか?*11」。

それでもゾンビとして生きていくための3つのケース・スタディ

変化を受け入れないことが破局に直結するかというと、そんなこともないだろう。無自覚に、適当にやり過ごして、齢を重ねていくゾンビも大勢いるだろう。私もそうだ。作中でいえばラグビー部顧問の佐々木もそうかもしれない。

膝の苦しみ

膝は陽介の友人でありながら、そのキャラクターは陽介とは正反対である。露悪的なところがあって、酒ばかり飲んでいて、お笑いサークルでもハブられている。就活もあまり上手くいっていないようだ。陽介よりもずっとゾンビのように見える。

しかし、どこか憎めないタイプの男である。自分にも他人にも正直で、自身の気持ちを率直に陽介に打ち明ける。変化する環境に、変化しなければならない自分に苦しんでいる。

麻衣子の二度の変身

陽介の一人目の交際相手である麻衣子は、紛れもなくゾンビだ。大きなトラウマともいえる出来事が二度麻衣子を襲い、そのたびに彼女は違う自分へと変身する。

一度目は、麻衣子が小学生のときのこと。変質者の男(彼もまたゾンビだ)に追われ、自転車で逃げ回る。ここでの逃走の描写は、ゾンビ映画そのものだ。家まで逃げ切って、窓から飛び込んできた麻衣子を見た母はぎょっとする。「いったい何が窓から飛び込んできたのか、わからなかったのね*12」。

二度目は、陽介が麻衣子と別れて灯と付き合い始めた頃のこと。麻衣子は政治家を志していて、えらい先生の秘書のようなことをしているが、その先生に性的な好意を向けられる。逃げ出した麻衣子は深夜に陽介の家を突然訪問し、セックスをする。このときの麻衣子も、どこか異形のもののような雰囲気をまとっている。

そのあと麻衣子がどうなったのかは明確には書かれていないが、最後の場面で、陽介を警察に通報したワンピースの女は麻衣子だろう。「女は髪を落ち着いた茶色に染め、晴れた日の空に似た色のワンピースを来ていた。私の知らないその女は、私を見ながら真剣な顔でどこかへ電話をかけていた*13」。

灯のこれから

二人目の交際相手の灯は、ゾンビの陽介とセックスを繰り返し、自身もゾンビ化していく。性欲は日に日に強まり、飼っていたメダカは死に絶え、得意だった料理も作らなくなる。

陽介が破局を迎え、灯が破局を迎えなかった理由は謎だ。かくれんぼが得意だからかもしれないし、性欲を抑えるために自分の指を安全ピンで刺していたからかもしれないし、部屋に住み着いている幽霊が守ってくれたからかもしれない。

陽介の破局が灯に今後どのような変化をもたらすのかは分からない。苦手だったカフェラテを飲んでも、気分が悪くなることはなくなった。カフェラテは聖水なのかもしれない。

破局

破局

Amazon

*1:p.60

*2:p.112

*3:p.68

*4:p.36

*5:p.26

*6:p.37

*7:p.53

*8:p.9

*9:p.71

*10:p.115

*11:p.135

*12:p.98

*13:p.138

夏の終わりの光―「ポルトガル、夏の終わり」

人生はほとんど思い通りに進まないというのは言うまでもないことで、過去は取り返しがつかないし、未来も自由に選べるわけではない。

 

ポルトガル、夏の終わり』の主人公は、女優としてかなりの成功を築いたが、末期ガンで先はそれほど長くない。人生の最期を前に、家族や友人を自分のもとに呼び寄せて、お節介パワーを発動する。これが全然上手くいかない。

娘夫婦は離婚しそうだし、孫はいじけてビーチで遊んでるし、息子の結婚相手にと呼び寄せた友人はボーイフレンドを連れてくるし、形見の腕輪も森の奥にぶん投げられる。無情だ。でも、それぞれにそれぞれの人生が(上手くいってないなりに)あるわけで、もうすぐ死ぬからといって何もかも主人公の思い通りになるわけではない。

最後に、ヤケクソなのかなんなのか趣旨がよく分からないんだけど、全員で山に登る。主人公は病気なのになぜか一番先に頂上に着いてて、あとから他のみんなが登るのを凄味をきかせて眺めている。旦那と友人が仲良さそうに話してたり、孫がつまらなさそうに下向いて歩いてたり、様子はいろいろなんだけど、結局自分が死んでも彼らの人生は続く。そういう当たり前のことを、彼女は受け入れたのだと思う。

頂上に全員が着いたところで、映画は終わる。互いに抱擁することも、パーティを始めることもない。親戚のババアに呼ばれて山に登ったけどなんだったんだろう、と内心毒づいてるかもしれない。そのうち忘れ去られるだろう。ただ、それぞれの人生が続いていくという単純な事実が、光を放って見える。沈む夕日がきれいだ。 

 

gaga.ne.jp

続・平和式典と首相挨拶の25年

こないだ書いた記事で、平和式典での首相挨拶について簡単な分析をした。似てても似てなくても結論はどちらでもよかったんだけど、25年分しか遡れなかったことはひとつ気がかりだった。

kuraitsukuookami.hatenablog.com

  • Wikipediaによると、広島の式典は1947年から、長崎の式典は1948年から行われているそうだ。首相が出席するようになったのは、広島では1971年が初めてのことらしい。長崎については記載がなかった。挨拶を伴うようになったのがいつからかは分からない。
  • 今回の分析では、1997年から2020年までを対象としている。情報元とした首相官邸のページで遡れる限界が1997年だったからだ。検索能力が低くてすまない。大きな図書館で、過去の新聞記事を探すことも考えたが、暑くて出かける気力がなかった。

ググって情報が得られないときに何を手がかりにすればいいのか分からない、というのがそこそこデジタルネイティブ世代の私の頭の悪さなんだろうけど、新聞に世の中の出来事が書いてあることくらいは知っているし、暑ささえ我慢すれば図書館にもたどり着ける。ちなみに、コロナウイルス対策で、入館には事前のWeb予約が必要で、利用時間も制限されていた。

子どもの頃には、縮刷版とかいうデカくて重たい本がたくさん並んだ本棚があったけど、時代を経て図書館もいろいろ電子化されたのか、各新聞社が提供しているオンラインアーカイブサービスが図書館の端末から使えるようになってて、あのデカくて重たい本たちはクラウドの彼方に消えてしまった。

端末に検索条件を打ち込むだけで、過去の記録はたくさん出てきたが、その時代の空気のようなものはそれだけではよく分からなくて、本を探してみたりもしたけど、なんだか腑に落ちないまま、時間を迎えてしまった。

このインターネットにも毎日毎秒大量のデータが蓄積されているけど、時代の空気のようなものは記録されるのか。大量のデータから必要なデータを抽出するのが難しいとか、データセンターが飛んだら終わりとか、そういうことが言いたいわけではなくて、掲示板のスレッドでもSNSでもブログでもVtuberのコメント欄でもなんでもいいんだけど、当時そこにいた人たちが感じていた空気が時代を経て誰かに伝わるかというと、なかなか上手くいかない気がする。

図書館の帰りは、夕方なのに昼間とほとんど気温が変わらなくて、調べ物のことももう割とどうでもよくなってしまったんだけど、最後に結果だけ書いて終わりにする。

 

  • 同じ年に現職の首相が両方の式典に出席したのは、1976年が初。*1
  • その後は、どちらか一方を毎年交互に訪れることが慣例化したが、1990年に当時の首相の強い意向で、14年ぶりに両方の式典に出席。*2
  • 1990年がイレギュラーで、その後も交互パターンは少しだけ続く*3が、90年代後半以降、両方パターンが当たり前になる。
  • 1976年は類似度0.50、1990年は0.61。計算手法は前回記事と同じ。首相挨拶の引用元はそれぞれ、『朝日新聞』1976年8月6日夕刊、1976年8月9年夕刊、1990年8月6日夕刊、1990年8月9日夕刊。

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1976

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1990

*1:『朝日新聞』1976年8月6日夕刊、1976年8月9日夕刊

*2:『朝日新聞』1991年7月23日朝刊

*3:『朝日新聞』1994年6月11日朝刊

物語は続く―sora tob sakana「信号」と「untie」

どんなことにも終わりはある。終わり方はいろいろで、終わりを自ら選ぶこともできれば、なにかの拍子に突然終わってしまうこともある。

 

<寺口夏花>
sora tob sakanaを応援してくださっている皆さんへ

 

この度私達sora tob sakanaは解散することになりました。
中学生を卒業する頃から、20歳になったら将来のことをもう1度考え直そうと考えていました。
そして20歳になる今、改めて今の生活を見つめ直してみました。

 

楽しかったことももちろんありますが、そうでないこともたくさんありました。
最近は今まで楽しいと思えていたことを辛いと思うこと、自分は人前に出るのが向いてないなと思うことがだんだん増えてきたように感じます。

 

皆で将来を考えて、この決断をしました。
6年間で学んだこと楽しかったこと、この先もきっと忘れないと思います。

 

もし良かったら、最後まで応援よろしくお願いします。*1

 

2020年5月にsora tob sakanaは解散を発表した。まだまだ続けることはできた(と思う)。寺口夏花は、神崎風花と山崎愛は、アイドルを続けることを受け入れなかった。sora tob sakanaの「夜間飛行」という曲には、

あの日私が受け入れなかった話の

結末は誰のためにあるんだろう

という一節があって、この曲を聴くといつもここで考えてしまうのだけれど、選ばれなかった物語や届かなかった言葉は一体どうなってしまうんだろう。

 

解散が決まってから、「信号」と「untie」の2曲が新たに書き下ろされた。sora tob sakanaの楽曲はデビューから一貫して、音楽プロデューサーの照井順政が作詞・作曲を手掛けていて、最後の楽曲も彼の手によるものだ。

 

www.youtube.com

「信号」を聴いたあとに、初期の楽曲を聴き返してみると、アイドルとして活動した6年の歳月を経て、10代の少女たちがこんなにも変わったことに驚く。

MVのラストの、彼女たちが光から手を離すカットは、アイドルであることから、きらめくステージに立つことから降りるようで、象徴的だ。最後に放った光は誰に届くのだろう。

 

www.youtube.com

それから、もう一曲の「untie」だ。私はラストアルバムのリリースが発表されてからしばらくの間、「unite」だと勘違いしていた。解散しても絆は永遠、サンキューマイメンフォーエバー、のような曲だと想像していた。照井順政はそんなヌルい男ではなかった。

2020年8月に発売された「信号」と「untie」を含むラストアルバム「deep blue」には、9曲の再録された既存の曲を挟んで、はじめに「信号」が、おわりに「untie」が収録されている。

「untie」のひとつ前の曲は「ribbon」という曲で*2

この列車に乗ったなら きっと

もうこの場所には戻れない

柔らかいベッドじゃ見られない夢

「今じゃなければ」なんて 馬鹿みたいでしょ?

の「列車」はアイドルであることと解釈できる。実際、この曲は彼女たち自身がモチーフになっているようで、照井順政は「deep blue」のブックレットで「ribbon」についてこう語っている。

自分が夢を追うか、このまま友達とかと過ごすかみたいな選択があるなかで、夢を諦めないで夢を追うことを選ぶ、みたいな。で、そっちを選ぶんだったら安定した楽しい暮らしっていうのはしばらく望めなくなるっていう覚悟を持って行くんだけど、そのときに、なんとなく過ごしてた毎日の大切さにも逆に気付いてしまうみたいな感じで。"それでも行くんだ"っていう感じの歌詞ですね。それはもちろん彼女たちのアイドル道にも重ねていて。

 

曲順からしても、「untie」の(結び目を)解く・ほどくという意味からしても、「untie」がアイドルであることからの解放を表していることは明白だ。

ところが、「untie」ではこれといって中身のあることは歌われない。波や星の形のこととか、髪が風に揺れてるとか、虫の声がするとか、ぼんやりした言葉が重なっていく。彼女たちの歌も曲の半分くらいで終わってしまって、残りの半分は静かにインストだけが流れる。ただ、歌詞の終わりは、強い確かな言葉で締めくくられる。

星が降るようだ

星が降るように

君が生きている

 

アイドルという物語が終わっても、人生という物語は続く。彼女たちの放った光が、彼女たち自身の未来をいつまでも明るく照らしてほしい。

*1:https://soratobsakana.tokyo/news/index02100000.html

*2:「ribbon」のひとつ前の曲が「夜間飛行」

平和式典と首相挨拶の25年

2020年の広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典における首相挨拶が酷似していると話題になっている。本記事では、1997年から2020年までのおよそ25年間の首相挨拶がどれだけ類似しているか検証する。

mainichi.jp

はじめに

  • この記事をもって、私個人の政治に関する見解を主張するつもりは一切ない。これから示すのは(私の程度の低い分析によって加工された)ただのデータである。この件について賛否両論、様々な意見が存在しているのは知っている。データをどのように捉えるかは、言うまでもなく個人の自由だ。
  • 同時に、この記事をもって、私の技術を人様にアピールするつもりも一切ない。私はソフトウェアエンジニアとして生計を立てているが、この記事を読んだ同業者の方が新たな技術的知見を得ることはないだろう。pythonは100年ぶりに触った。クソコードと罵ってくれ。誤りがあれば是非指摘してくれ。分析に用いた元データはGitHubで公開している。もっとインテリジェントな分析ができる方は、自由にトライしてほしい。

準備

情報元

  • Wikipedia*1によると、広島の式典は1947年から、長崎の式典は1948年から行われているそうだ。首相が出席するようになったのは、広島では1971年が初めてのことらしい。長崎については記載がなかった。挨拶を伴うようになったのがいつからかは分からない。
  • 今回の分析では、1997年から2020年までを対象としている。情報元とした首相官邸のページで遡れる限界が1997年だったからだ。検索能力が低くてすまない。大きな図書館で、過去の新聞記事を探すことも考えたが、暑くて出かける気力がなかった。

分析手法

  • 冒頭で引用した記事の「93%」がどのように算出された値か不明だが、 本分析では、Bag of Words & TF-IDFを用いて、各年の8月6日と8月9日の挨拶のコサイン類似度を算出している。詳細はググってくれ。ふつうにdiffを叩けばいいかと思ったが、そのあと類似度を算出する方法がパッと分からなかった。もちろん、この手法より適切な優れた手法はいくらでもあるだろう。
  • 私の理解している範囲で、Bag of Words & TF-IDFの説明を簡単にする。文書内に登場する単語の数をカウントし、適当に重み付けして比較する。以上だ。文や単語の順序は無視される。「私はさそり座の女である。隣の客はよく柿喰う客だ。今日は猛暑日だ。」と「今日は猛暑日だ。客の女は柿座である。私の隣はよく客喰うさそりだ。」は100%同一とみなされる。役に立つこともあれば役に立たないこともある。
  • 気になる方が手元で再現できるよう、私のコードを残しておく(が、あまり参考にしないでほしい)。Python3が動く環境なら、python3 main.py hoge.txt foo.txtでたぶん動く。動かなかったら、パッケージが足りてないかも。pipで入れてくれ。それでも動かなかったら申し訳ない。自力で直してくれ。ちなみに、定番のMeCabを使ってないのは、pipで一発で入らないので面倒というだけの理由だ。
import sys
from janome.tokenizer import Tokenizer
from sklearn.feature_extraction.text import TfidfVectorizer
from sklearn.metrics.pairwise import cosine_similarity

def wakati(text):
    tokenizer = Tokenizer()
    words = tokenizer.tokenize(text, wakati=True)
    return words
 
if __name__ == '__main__':
    args = sys.argv
    number_of_files = len(sys.argv) - 1
    texts = [None] * number_of_files
    for i in range(number_of_files):
        with open(sys.argv[i + 1], mode='r', encoding='utf-8') as f:
            texts[i] = f.read()
    
    vectorizer = TfidfVectorizer(analyzer=wakati, binary=True, use_idf=False)
    vector = vectorizer.fit_transform(texts)

    result_matrix = cosine_similarity(vector)

    print(result_matrix)

結果

類似度 メモ
1997 0.79867676 橋本
1998 0.8646762 小渕
1999 0.8813113 小渕
2000 0.88798072
2001 0.89855139 小泉
2002 0.89179084 小泉
2003 0.84663912 小泉
2004 0.90530331 小泉
2005 0.86652249 小泉
2006 0.94940035 小泉
2007 0.82304456 安倍
2008 0.72180903 福田
2009 0.80219242 麻生
2010 0.8580395
2011 0.9122949
2012 0.95023741 野田
2013 0.83244922 安倍
2014 0.8457442 安倍
2015 0.8698766 安倍
2016 0.90371553 安倍
2017 0.89728132 安倍
2018 0.86029412 安倍
2019 0.96384702 安倍
2020 0.93338 安倍

f:id:kuraitsukuookami:20200812083742p:plain

おしまい

  • 2020年の類似度が0.93になったのはよくできた偶然である。
  • 分析が上手くできてるか心配なので、最小値(2008)と最大値(2019)だけ、ふつうのdiffをとった結果を示して終わりとする。

f:id:kuraitsukuookami:20200811225236p:plain
2008

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2019

アイドルとフィクション、日向坂46「3年目のデビュー」

映画館で観てきた。日向坂46のグループ結成から現在までの歩みを描いたドキュメンタリー映画だ。公開3日目に観ておきながら、私は超ニワカである。

 

hinatazaka46-documentary.com

 

結成時はけやき坂46という名前で、欅坂46のアンダーグループだったこと。

長濱ねるがけやき坂46と欅坂46の間のややこしい立場にいたこと。

グループが今後どうなるのか誰にも分からない不安な時期に、キャプテンの佐々木久美が「悔しくないの?」とメンバーに泣きながら訴えたこと。

武道館での3Days公演を1か月前に急遽打診されたとき、加藤史帆が「できる」とも「できない」とも答えられなかったこと。

日向坂46に改名し、センターに抜擢された小坂菜緒がその重圧に苦しんでいたこと。

唯一の3期生だった上村ひなのが、まわりのメンバーについていくのに必死だったこと。

柿崎芽実がストーカー被害で、井口眞緒が週刊誌の報道で、グループを去ってしまったこと。

決して順風満帆な道のりではなかったこと。

 

全然知らなかった*1 。メンバーが20人くらいしかいないのも知らなかった。46人いないんかい。

 

この映画で語られる日向坂46の軌跡は、多くの物語がそうであるように、なにか困難が生じて、それをメンバーが力を合わせて乗り越える、というステップの連続だ。ファンが望む物語=フィクションだ。

困難の先には、大人たちからサプライズで発表がある。シングルデビュー、改名、東京ドームでのワンマンライブ。一段上の、新しいステージだ。そこには新しい困難が伴う。

 

彼女たちは、大人たちに用意された物語を演じているだけなのだろうか?映画で繰り返し強調された、彼女たちの明るさや積み上げてきた努力、仲間を大切に思う気持ちもまたフィクションなのだろうか?

ファンはアイドルの虚構を受け入れ、サイリウムを振り、握手会に通うしかないのだろうか?私たちに信じられるものはなにか残っているだろうか?*2

*1:これらはすべて映画から私が知り得た情報だ。本当かどうかは分からない。映画もまたフィクションである。

*2:ところで、メンバーに対する大人たちのサポートが足りてないのでは、というのがこの映画を観た私の率直な印象である。ストーカー被害や週刊誌の報道の件は論外だし、ふだんの活動においても彼女たちにかかる負荷はあまりに大きい。物語なくして人は生きられないが、生きていないと物語もなにもない。

上出遼平「ハイパーハードボイルドグルメリポート」

本書は、テレビ東京の同名の番組「ハイパーハードボイルドグルメリポート」を書籍化したものだ。ヤバい奴らのヤバい飯。ただ、番組で紹介された内容は、本書で語られる内容のごく一部にすぎない。

 

ハイパーハードボイルドグルメリポート

ハイパーハードボイルドグルメリポート

 

 

リベリアの元少年兵は、生きるためには敵を殺すしかなかった。内戦は終わり、彼らの人生は続いている。貧しいが、生きるためには食べなければならない。

台湾のマフィアは、豪奢な料理に舌鼓をうつ。その裏では、善良な人を暴力で傷つけ、時には誰かを殺すこともあるのかもしれない。

 

ロシアのカルト宗教の信者たちは、人里離れた村で、自給自足の生活を送っている。肉は禁じられている。酒も飲まない。豊かな暮らしではないが、悩みや心配に苛まれることはないという。それでも、人生の意味をなにか求めている。

ケニアのゴミ山で暮らす少年は、一日中汚穢にまみれてゴミを漁る。ゴミ山で食べて、ゴミ山で眠る。ここから抜け出す日は来るのだろうか。希望を求めて、神に祈る。

 

食べることは生きること、とよく言われるが、そのあり方は(日本で暮らす我々には信じられないほど)多様だ。そして、そこに正解はない。