余華『兄弟』の美処女コンテスト、ものの価値のあいまいさ
こないだの四連休に余華『兄弟』を読んだ。鈍器のような本だ。
物語は二部構成になっている。第一部は文化大革命の嵐が吹き荒れる中国の架空の町・劉鎮を描いている。まだ幼い二人の主人公、兄・宋鋼と弟・李光頭は激動の時代を手を取り合って生き抜く。
それから開放経済の時代がやってくる。第二部で、弟・李光頭は劉鎮で一番のビッグマンに成り上がる。町が街に変わっていく。
第一回全国美処女コンテストが開催される。中国全土から三千人を超える美処女が劉鎮の街に一堂に会して競い合う。悪ノリとしか思えないイベントだ。コンテストの発案者にして出資者はもちろん弟・李光頭である。美処女コンテストというからには当然処女であることが出場の条件になっているのだが、そんなルールはいくらでもインチキできる。ヤリマンだらけだ。勝ち上がるために審査員と寝まくる。人工処女膜を売り捌く山師がどこからともなく現れて、一儲けする。李光頭と一夜を共にした、二歳の娘の母が見事一位に輝く。
ところで、この「処女であること」というコンテストの出場条件は、一昔前までは、女性がどうこうできるものではなかった。結婚した男性の権利であったり、初夜権という言葉があるようにどこかの権力者の権利であったかもしれない。現代の社会では(少なくとも日本においては)、基本的にこの権利は女性当人に属している。架空の街・劉鎮は進歩的だ。かつては男性の持ち物であったものが、女性の持ち物になって、しかもコピー可能になっている。
私は性の乱れを指摘したいわけではなくて、「処女であること」という権利は各自好きなように行使すればいいと思う。大体私は処女でもなければ女性でもないのでよく分からないが、カジュアルに使う人もいれば大事に守り抜く人もいるように、人それぞれでいいはずだし、私がいちいち口を出すのもおかしい。
「処女であること」というのはかなり極端な例だが、ごくごく一般に、現代において、ものの価値はきわめてあいまいになっている。個人は自由に価値を選びとれるようになった。選択肢が増えたのはいいことだが、選びとった価値に根拠を与えてくれるものがいまの社会には乏しい*1*2*3。
第一回全国美処女コンテストが終わると、兄・宋鋼は、人工処女膜で一儲けした山師と、ペニスの強壮剤と豊胸クリームを売り歩く旅に出る。弟・李光頭は、宋鋼の妻・林紅を自分のものにする。上海で処女膜再生手術を受けさせ、林紅の処女を奪う。まさにそのとき、宋鋼は自ら線路に横たわり、列車に轢かれ身体は真っ二つになる。
ものの価値はきわめてあいまいになったが、犯しがたい神話的なタブーがあるのだろうか。長い物語は破局を迎える。