『サウンドプロダクション入門』に学ぶフィーレドレコーディング
身のまわりの音が気になるようになった
心が弱っているのだろうか、鳥がピーピー鳴いてるとか*1、セミが鳴いてないとか*2、身のまわりの音が気になるようになった。
スマートフォンが普及して、写真や動画を記録するのは当たり前になった。写真や動画を撮るように、鳥の鳴き声やセミの鳴いてない声を記録してみたい。「フィールドレコーディング」だ。『サウンドプロダクション入門』という本に良いことが書いてあった。
普段、視覚や聴覚と一緒に受け止めている外の世界は、聴覚だけ切り離すと全く違うものになります。視覚イメージのないところでは、音の大きさや距離感、場所の響きや、普段気に留めていない多数の環境音に気づくのです。山の風の音や木の葉の擦れる音、川や海の水の音、時には港や工場のノイズは、それ自体で聴き込むことのできる美しい環境音楽になります。*3
機材を買った
2021年現在、安くて音質のいい機材は、ZOOM社のH1nだそうだ。Am7と悩んだが、専用の機材を持っていたほうが感じが出そうなので、H1nに決めた。どちらも1万円くらいで買える。
自宅で録音してみた
注文した次の日の朝に届いた。ありがとうヨドバシカメラ。
自宅でまずは録音してみる。寝室で、といっても小さなアパートに住んでるので、うちには寝室とリビングしかないんだけど、ベッドの隣の引き出しの上にH1nを置いて、窓を開けて、一時間くらい回してみることにする。ピーピー鳴いてる鳥がピーピー鳴いてるのを記録したい。いつものようにピーピー鳴いてほしい。お願いします。セミもミンミン鳴いてほしい。ぜひ参加してください。
再び『サウンドプロダクション入門』によると、
実際に録音するときは、密閉型のヘッドフォンでモニターしながら作業すると、狙いもはっきりするし、作業に集中できるでしょう。
また、ヘッドフォンでモニターしているとはっきりとわかりますが、録音したい音をマイク正面に置くと、音の狙いがはっきりします。これがずれていると、何を録音したいのかがよくわかりません。*4
と書いてあって、ちゃんとモニターしながら機材の位置を調整したほうがいいっぽいんだけど、とりあえず初回なので、エイヤで録音開始ボタンを押して、そのまま一時間、放っておくことにする。うまく録音できてなかったら、そのときまた考えればいい。
ちょうどいま録音しながら、隣のリビングでこの文章を書いていて、キーボードを叩く音とか、マグカップをテーブルに置く音とか、冷蔵庫を閉じる音とか、自分の生活音が入るのは特に気にしてないつもりなんだけど、録音してることを意識しはじめると、いろんな動作がぎこちなくなってしまって、なんだかおもしろい。
ちなみに、今回のレコーディングは以下のセッティングで行っている。
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フォーマット
- 非圧縮のWAVで、48kHz/24bitにしておくのが無難らしい。とりあえずそれにしたがう。このフォーマットだと、32GB*5のmicroSDカードで、最大30時間まで録音できるようだ。データはこまめにPCに移動するつもりだし、そもそも連続録音中の電池持続時間も最大10時間で、さすがにそんなに長回しにすることもないだろうから、この設定で困ることはなさそうだ。
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低域カット
- Zoom H1nには、風の雑音やボーカルのポップノイズをカットしてくれる機能が備わっている。とりあえずON(120Hz)にした。風の雑音はどういうふうに聴こえるんだろう。風の雑音があるほうがもしかすると味があるかもしれない。
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リミッター
- 突発的な大音量に対してクリップ(音割れ)を防止してくれる機能もついてた。どういう仕組みで防止してくれるんだろう。これもONにした。
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入力レベル
- どのくらいの値が適切なのか全く分からないので、とりあえず自動レベル調整をONにした。
音源を聴いてみた
一時間回したので、一時間かけて聴いた。気になるところは何回か繰り返し聴いたので、全部で一時間半くらいかかった。
AirPods Pro*6でノイズキャンセリングを全開にして、リビングの天井を見ながら聴いた。鳥がピーピー鳴いていた。セミが遠くのほうでミンミン鳴いていた。車が通りを走っていた。私がキーボードを叩いていた。不思議な感覚である。これはなかなかおもしろい。H1nをもって、いろんなところに行ってみたい*7。
*1:https://kuraitsukuookami.hatenablog.com/entry/2021/07/21/091803
*2:https://kuraitsukuookami.hatenablog.com/entry/2021/07/23/063928
*3:横川克彦(2021)『サウンドプロダクション入門 DAWの基礎と実戦』ビー・エヌ・エヌ、p.30
*4:同p.33
*5:Zoom H1nは最大32GBまでしか対応していない。
*6:モニター用のちゃんとしたヘッドホンで聴いたほうがいいのかもしれないが、残念ながら私の持っているAKG K701(いわゆる澪ホン)では遮音性が低く、録音した音を聴いてるのか、外の音を聴いてるのか、区別がつかなかった。
*7:編集もなにもしてませんが、音源をSoundCloudに置いておきます。私でない他の誰かが、私の身のまわりの音を聴いて、私と同じようにおもしろいと感じるかは分かりませんが、作業用BGMくらいにはなると思います。
余華『兄弟』の美処女コンテスト、ものの価値のあいまいさ
こないだの四連休に余華『兄弟』を読んだ。鈍器のような本だ。
物語は二部構成になっている。第一部は文化大革命の嵐が吹き荒れる中国の架空の町・劉鎮を描いている。まだ幼い二人の主人公、兄・宋鋼と弟・李光頭は激動の時代を手を取り合って生き抜く。
それから開放経済の時代がやってくる。第二部で、弟・李光頭は劉鎮で一番のビッグマンに成り上がる。町が街に変わっていく。
第一回全国美処女コンテストが開催される。中国全土から三千人を超える美処女が劉鎮の街に一堂に会して競い合う。悪ノリとしか思えないイベントだ。コンテストの発案者にして出資者はもちろん弟・李光頭である。美処女コンテストというからには当然処女であることが出場の条件になっているのだが、そんなルールはいくらでもインチキできる。ヤリマンだらけだ。勝ち上がるために審査員と寝まくる。人工処女膜を売り捌く山師がどこからともなく現れて、一儲けする。李光頭と一夜を共にした、二歳の娘の母が見事一位に輝く。
ところで、この「処女であること」というコンテストの出場条件は、一昔前までは、女性がどうこうできるものではなかった。結婚した男性の権利であったり、初夜権という言葉があるようにどこかの権力者の権利であったかもしれない。現代の社会では(少なくとも日本においては)、基本的にこの権利は女性当人に属している。架空の街・劉鎮は進歩的だ。かつては男性の持ち物であったものが、女性の持ち物になって、しかもコピー可能になっている。
私は性の乱れを指摘したいわけではなくて、「処女であること」という権利は各自好きなように行使すればいいと思う。大体私は処女でもなければ女性でもないのでよく分からないが、カジュアルに使う人もいれば大事に守り抜く人もいるように、人それぞれでいいはずだし、私がいちいち口を出すのもおかしい。
「処女であること」というのはかなり極端な例だが、ごくごく一般に、現代において、ものの価値はきわめてあいまいになっている。個人は自由に価値を選びとれるようになった。選択肢が増えたのはいいことだが、選びとった価値に根拠を与えてくれるものがいまの社会には乏しい*1*2*3。
第一回全国美処女コンテストが終わると、兄・宋鋼は、人工処女膜で一儲けした山師と、ペニスの強壮剤と豊胸クリームを売り歩く旅に出る。弟・李光頭は、宋鋼の妻・林紅を自分のものにする。上海で処女膜再生手術を受けさせ、林紅の処女を奪う。まさにそのとき、宋鋼は自ら線路に横たわり、列車に轢かれ身体は真っ二つになる。
ものの価値はきわめてあいまいになったが、犯しがたい神話的なタブーがあるのだろうか。長い物語は破局を迎える。
オリンピック雑感(1)―ニュースダイエットとTOKYO2020―
2021/07/22
四連休の初日。ついに明日からオリンピックが始まるらしい*1。オリンピック期間中に自分がオリンピックについてどんなことを考えていたか、あとから思い出せるように、こうして記録をつけることに決めた。
この日より前の日付の出来事は、今日、2021年7月22日に振り返って記録をつけたため、記憶の間違いがあるかもしれない。
2021/07/11
ロルフ・ドベリの「News Diet」を読み終えた。なにごとにも影響されやすい私は、ニュースを見るのをやめることにした*2。
7月22日現在の私が記憶している、直近のニュースは、熱海で起きた土砂災害だ。テレビで同じ映像が繰り返し流れていた。ショッキングな出来事だが、私が心を痛めたところでどうにもならない*3。
コロナウイルスもたしかに心配だが、私にできることは何もない。感染しないように外出は必要最小限にする。ワクチン摂取の順番が回ってくるのをおとなしく待つ。ニュースを見たところで、私のふだんの行動は変わらない。
オリンピックについては、本当にがっかりしていて、開催されようがされまいがオリンピックはもう絶対に見ないと決めていた。これはたしか、先月のどこかのタイミングで決めたと記憶している。決定的なきっかけになったニュースがなにかあったはずだが、残念ながら思い出せない*4。
このように、最近悲しいニュースが多い*5。このままでは私の生活がダメになってしまう。気持ちが荒む。ニュース(特にオリンピックに関するあれこれ)は今後、少なくとも七月八月は、すべて遮断するとこの日、心の誓いを立てた。心の誓いを立てただけでは人間なかなかうまくいかないので、たしかこの日のうちにか、遅くとも次の日までには、いくつかの対策を講じた。徹底的にやる。
- テレビの線を抜いた*6。
- スマホのニュースアプリをすべて消した。
- ブラウザのニュースサイトのブックマークをすべて消した*7。
- ニュースのリツイートをしてくる人のツイッターのフォローをすべて外した(ごめんなさい)*8。
2021/07/16
ニュースを全く見ずに、平日の五日間を乗り切ることができた。梅雨明け直前で、天気は悪かったが、心はおだやかだ。開会式まであと一週間だ。
2021/07/17
オンラインの飲み会があった。ワクチン摂取の副反応がなんとかかんとか。みんなおじさんになった。オリンピックの話題は出なかった。
2021/07/19*9
仕事中に調べものをしていたら、どうやらオードリータンが開会式に来ないことになったらしい。ヘッドラインだけ見てしまった。詳細は確認してないため分からないが、オードリータンの判断は賢明なように思えた。オードリータンのような頭のいい人が開会式に来なくても、オリンピックは開催されるんだろうか。
2021/07/20*10
田中圭がコロナウイルスに感染したらしい。私も知ってる俳優だ。一時期、アベマTVのCMでよく見かけた(狂った高校教師の役を演じていた)。リモートワークが多く、電車に滅多に乗らなくなったというのに、たまたま乗った電車の小さいテレビでうっかり見てしまった。すぐに下を向く。オリンピックはどうなったんだろう。田中圭がコロナウイルスに感染しても、オリンピックは開催されるんだろうか。
2021/07/21
勤めている会社がスポンサーをやっているからか、オリンピックに関する、なんだか訳の分からない社内の通知があった。私の部署はオリンピックとは縁もゆかりもないので特に影響はないけれど、どうやら本当にオリンピックは開催されるみたいだ、この通知で確信に変わった*11。
明日からの四連休が待ち遠しい。
*1:開会式は22日だったか23日だったか、記憶があいまいなんですが、これ以上余計なことを知りたくないので、あえて調べないことにします。
*2:なかなかためになる本なので、気になる人はぜひ読んでみてください。
*3:自然災害は用心するにこしたことはないので、現在も必要最低限の情報は得るようにしています。ロルフ・ドベリも天気予報はチェックするそうです。
*4:特に、コロナウイルスやオリンピックについては、たくさんの意見がありますが、それらについて議論するつもりはありません。ちなみに、ロルフ・ドベリは、現代社会の問題は情報が氾濫していることではなく意見が氾濫していることだ、というようなことも同書で指摘していて、私はこの指摘には賛成の立場です。
*5:
*6:テレビが嫌いなわけではないので、好きな番組はPCで録画して視聴しています。録画予約をするときに番組表が一瞬目に入るのが悩みです。
*7:他にも、Chromeの起動ページにデフォルトでニュースが表示されたり、いたるところにニュースは潜んでいて、油断できません。
*8:おすすめやトレンドも毒なので、これらを非表示にするためのChromeの拡張も入れました。
*9:これも記憶があいまい。2021/07/16の可能性あり。
*10:2021/07/18の可能性あり。
*11:本当に、一切のニュースを遮断しているので、私がいまこの記録を書いてる時点で開催中止もしくは延期になっている可能性は(低いですが)捨てきれません。もしそうなっていたら、笑い飛ばしてください。
ゾンビとしてのサバイバルガイド―遠野遥「破局」
TL;DR
- 人類みなゾンビ
- ゾンビでもなんとか生きていくしかない
『破局』のあらすじ
『破局』の主人公・陽介は実はゾンビである。ゾンビは、巧妙に人間に擬態し、一見順風満帆な大学生活を送っている。高校のラグビー部のコーチ、公務員試験、二人の女性との交際。物語の最後に、ゾンビは路上で人を襲い、破局は唐突に訪れる。
陽介がゾンビであることを示す13の特徴
ゾンビというのは(後述するように)もののたとえであって、陽介は映画に出てくるような腐った死体では当然ないのだけれど、作中において、陽介はゾンビとしての特徴を多く備えたキャラクターとして描かれる。
1. 自分で自分はゾンビであると明言している
ゾンビという表現は、私が勝手に選んだわけではなくて、作中で二度、陽介は自分はゾンビであると明言している。
一度目は、高校のラグビー部のコーチをしているとき。ラグビーは「ゾンビみたいに最後まで立ち上がり続けたほうが勝つ」。陽介は、高校で「現役だったとき、実際に自分をゾンビだと思いこむようにして*1」いたという。
二度目は、二人目の交際相手である灯との旅行でのこと。灯の強い性欲を満たすために、ホテルでゾンビ映画を観ながら、二人は一日中セックスを続ける。疲れた陽介の調子を気遣う灯に、陽介は「俺は何度だって蘇る*2」と語る。
2. 攻撃性が高い
優しいゾンビもいるのかもしれないが、ゾンビというのは概して攻撃性が高い。陽介も善良な人間に見えて、実は高い攻撃性の持ち主だ。物語の最後には路上で人を襲うし、電車で見知らぬおじさんを威圧するし、ラグビーでは向かってくる敵にがんがんタックルを仕掛ける(もちろんラグビーのルールにおいては、このような攻撃は許されているのだろうが)。
3. 性欲が強い
(灯には及ばないが、)陽介はかなり性欲が強い。「セックスをするのが好きだ。なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ*3」。灯の前の、一人目の交際相手である麻衣子に対しても「もっとセックスをしたい。本当なら毎日したい*4」と感じていた。そして、ゾンビも性欲が強い。たぶん。
4. 肉を喰らう
ゾンビは肉を喰らう。陽介も肉が好きだ。野菜も食べろ。
5. 眠りの質が高い
性欲、食欲ときたら、三つ目は睡眠欲だが、陽介の眠りの質は高い。夜眠れないような心配事は全くない(と少なくとも本人は思っている)し、警官に捕まっても問題なく眠れるようだ。ゾンビの眠りの質についてはよく知らない。
6. 社会規範への意識
人間に擬態して社会生活を送るためには、規範を守ることはマストである。ゾンビとバレては大変だ。陽介は異常なまでに規範意識が高い。が、それはどこかズレていて奇妙だ。
7. 筋トレが好き
規範意識がいくら高くても、身体が腐っていたら、一発でゾンビとバレしてしまう。トレーニングで健康な肉体を獲得しなければならない。
8. 臭いに敏感
くんくん。
9. 他者の視線
陽介は常に誰かに見られている。なぜなら、彼はゾンビだからだ。街中にゾンビがいたら、誰でも見るだろう。カフェの店員も、横断歩道を渡る子どもも、散歩している犬も、みんな陽介を見ている(と陽介は感じている)。
10. 笑いがぎこちない
ゾンビは感情を持たない。陽介の笑いはぎこちない。「こちらが笑うのを期待しているような話しぶりだったから、笑うのが礼儀だと思った*5」。「麻衣子は微笑んだ。私も真似をして微笑んでみた*6」。「何が面白いのかは、私にもわからなかった。とにかく笑えて仕方なかった*7」。「膝」という変わったあだ名をもつ陽介の友人は、お笑いサークルに所属している。
11. 話がつまらない
ゾンビというのはだいたい、正気を失ってうーうー唸ってるだけだ。陽介は会話こそ全うに成立するが、その内容はかなりつまらない(本人も自覚があるようだ)。作中で、カギカッコつきで陽介が話す場面はほとんどなくて、話したところで客観的に自明なことしか語らない。
12. 突然祈る
ゲームでキャラクターがゾンビ状態になってしまうと、教会で祈ってもらわないと回復しない。陽介は信仰を持たないようだが、なぜか突然祈り出すことがある。だが、この祈りは自分にも他者にも届くことはない。
13. 太陽の光に弱い
ゾンビは太陽の光に弱い。あえて太陽の「陽」の字を名前に使うことで、その弱点を巧妙に隠してはいるが、最後に陽介に破局をもたらす彼女の名前は「灯」だ。
ゾンビであることの意味、自分が自分でなくなること
この世はゾンビランド
いくつかゾンビの特徴を挙げたが、結局ゾンビであることは何を意味しているのか。そもそもゾンビとは何なのか。
すごくラフに言ってしまえば、ゾンビになるというのは、ある種の状態の変化である。
人間というのは、心も身体も常に変化を続ける生き物だ。そして、100年後には全員死んで墓場でゾンビになって踊る。人間はゆるやかにゾンビ化していく。生きることはゾンビになる過程である。これは誰にも避けられない。
この意味において、(程度の差はあれ、)陽介も、灯も麻衣子も膝も、人類みなゾンビである。そして、ゾンビ化は死ぬまで止まらない。心も身体もどんどんゾンビになっていく。「彼らくらいの歳になると、人間の歯は自然と黄ばみゆくのだろうか。そうだとしたら憂鬱なことだ*8」。本当に憂鬱なことだ。
良いゾンビ、悪いゾンビ
だが、ゾンビになっても、路上で人を襲ってはいけない(とされている)。悪いゾンビは社会から排除されて、警官に捕まってしまう。ゾンビ化する自分と上手く折り合いをつけて生きていかないといけない。良いゾンビにならなくてはならない。
陽介は、ゾンビ化することが、変化することが受け入れられなかった。大学時代は誰にとっても激動の時期だ。だが、陽介は変化する自分と向き合わなかった。公務員を目指しているが、その理由を考えたことはない。高校生のコーチをしているが、自身はどういうわけか大学ではラグビーから離れてしまった。筋トレを続けているが、その目的はよく分からない。なんとなく世間で良いとされているものにしたがっているだけで、自分でなにかを考えて選択することはない。
一方で、周囲の人間は変化していく。その変化が陽介には奇妙に映る。「私の知っている麻衣子は、決して終電を逃さない*9」。「この男は、もう私の知っている佐々木ではないのかもしれない*10」。「灯は笑顔のよく似合う子で、灯にはずっと笑っていて欲しいと私は願っていたはずだが、そういう認識で合っているか?*11」。
それでもゾンビとして生きていくための3つのケース・スタディ
変化を受け入れないことが破局に直結するかというと、そんなこともないだろう。無自覚に、適当にやり過ごして、齢を重ねていくゾンビも大勢いるだろう。私もそうだ。作中でいえばラグビー部顧問の佐々木もそうかもしれない。
膝の苦しみ
膝は陽介の友人でありながら、そのキャラクターは陽介とは正反対である。露悪的なところがあって、酒ばかり飲んでいて、お笑いサークルでもハブられている。就活もあまり上手くいっていないようだ。陽介よりもずっとゾンビのように見える。
しかし、どこか憎めないタイプの男である。自分にも他人にも正直で、自身の気持ちを率直に陽介に打ち明ける。変化する環境に、変化しなければならない自分に苦しんでいる。
麻衣子の二度の変身
陽介の一人目の交際相手である麻衣子は、紛れもなくゾンビだ。大きなトラウマともいえる出来事が二度麻衣子を襲い、そのたびに彼女は違う自分へと変身する。
一度目は、麻衣子が小学生のときのこと。変質者の男(彼もまたゾンビだ)に追われ、自転車で逃げ回る。ここでの逃走の描写は、ゾンビ映画そのものだ。家まで逃げ切って、窓から飛び込んできた麻衣子を見た母はぎょっとする。「いったい何が窓から飛び込んできたのか、わからなかったのね*12」。
二度目は、陽介が麻衣子と別れて灯と付き合い始めた頃のこと。麻衣子は政治家を志していて、えらい先生の秘書のようなことをしているが、その先生に性的な好意を向けられる。逃げ出した麻衣子は深夜に陽介の家を突然訪問し、セックスをする。このときの麻衣子も、どこか異形のもののような雰囲気をまとっている。
そのあと麻衣子がどうなったのかは明確には書かれていないが、最後の場面で、陽介を警察に通報したワンピースの女は麻衣子だろう。「女は髪を落ち着いた茶色に染め、晴れた日の空に似た色のワンピースを来ていた。私の知らないその女は、私を見ながら真剣な顔でどこかへ電話をかけていた*13」。
灯のこれから
二人目の交際相手の灯は、ゾンビの陽介とセックスを繰り返し、自身もゾンビ化していく。性欲は日に日に強まり、飼っていたメダカは死に絶え、得意だった料理も作らなくなる。
陽介が破局を迎え、灯が破局を迎えなかった理由は謎だ。かくれんぼが得意だからかもしれないし、性欲を抑えるために自分の指を安全ピンで刺していたからかもしれないし、部屋に住み着いている幽霊が守ってくれたからかもしれない。
陽介の破局が灯に今後どのような変化をもたらすのかは分からない。苦手だったカフェラテを飲んでも、気分が悪くなることはなくなった。カフェラテは聖水なのかもしれない。
上出遼平「ハイパーハードボイルドグルメリポート」
本書は、テレビ東京の同名の番組「ハイパーハードボイルドグルメリポート」を書籍化したものだ。ヤバい奴らのヤバい飯。ただ、番組で紹介された内容は、本書で語られる内容のごく一部にすぎない。
リベリアの元少年兵は、生きるためには敵を殺すしかなかった。内戦は終わり、彼らの人生は続いている。貧しいが、生きるためには食べなければならない。
台湾のマフィアは、豪奢な料理に舌鼓をうつ。その裏では、善良な人を暴力で傷つけ、時には誰かを殺すこともあるのかもしれない。
ロシアのカルト宗教の信者たちは、人里離れた村で、自給自足の生活を送っている。肉は禁じられている。酒も飲まない。豊かな暮らしではないが、悩みや心配に苛まれることはないという。それでも、人生の意味をなにか求めている。
ケニアのゴミ山で暮らす少年は、一日中汚穢にまみれてゴミを漁る。ゴミ山で食べて、ゴミ山で眠る。ここから抜け出す日は来るのだろうか。希望を求めて、神に祈る。
食べることは生きること、とよく言われるが、そのあり方は(日本で暮らす我々には信じられないほど)多様だ。そして、そこに正解はない。
スゴ本の読み方―Dain「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」
「あとで読む」はあとで読まない。本書の帯に大きな字で書かれている。ドキッとして本書を読んでみたところ、これにはどうやら、要約すると、
ネット書店のレビューや本屋のPOPを見て、運命的な出会いを直感して本を買ったはいいものの、部屋で読み始めるとどうにも違和感がある。まあいいか、あとで読もう。こうなると、だいたいあとで読まない。本も商品なのだから、レビューやPOPが魅力的に見えるのは当たり前だし、運命的な出会いは稀である。図書館を活用しなさい。
という文脈があるようだ。一般に「あとで読む」は罪だ、と主張しているわけではないのだ。よかった。私は怠惰なので「あとで読む」だらけだ。図書館にもあまり通えてない。ごめんなさい。
著者のブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」におけるスゴ本の書評にはいつもお世話になっているが、本書では「スゴ本の読み方」についてもまるごと一章が割かれている。
本を読むからには私はできるだけ良い読み手でありたい。そう願うのはおそらくふつうのことだが、簡単なことではなさそうだ。アドラーの『本を読む本』はずいぶん前に買ったが、ウンザリして途中でやめた気がする。そして結局それ以来一度も読んでいない。
悩みのあるところにスゴ本があるのは、必然なのだろうか。「どのように本を読むか」、「なぜ本を読むのか」、「そもそも読むとは何か」。先人は本に残してくれている。えらい。それを紹介してくれる著者もえらい。ありがとう。アドラー以外にも、いろんなタイプの良い読み手がいるのだ*1。
「あとで読む」と思ったものがたくさんあったので、自分用のメモとして、以下に書名のリストだけ挙げる。本当に「あとで読む」かは分からない。
- ダニエル・ペナック著、浜名優美、浜名エレーヌ、木村宣子訳、『ペナック先生の愉快な読書法』、藤原書店
- 司馬遼太郎、『峠』、新潮社
- ウラジミール・ナボコフ著、行方明夫訳『ナボコフのドン・キホーテ講義』、昭文社
- ピエール・バイヤール著、大浦康介訳、『読んでない本について堂々と語る方法』、筑摩書房
- 佐藤亜紀、『小説のストラテジー』、筑摩書房
- 廣野由美子、『批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義』、中公新書
- デイヴィット・ロッジ著、柴田元幸、斎藤兆治訳、『小説の技巧』、白水社
- 日本経済新聞社編、『半歩遅れの読書術〈1〉私のとっておきの愉しみかた』、日本経済新聞出版
- ロジャ・シャルチエ著、福井憲彦訳、『読書の文化史―テクスト・書物・読解』、新曜社
- アルベルト・マングェル著、野中邦子訳、『読書礼賛』、白水社
- アルベルト・マングェル著、原田範行訳、『読書の歴史』、柏書房
- アルベルト・マングェル著、野中邦子訳、『図書館 愛書家の楽園』、白水社
- デヴィッド・L・ユーリン著、井上里訳、『それでも、読書をやめない理由』、柏書房
*1:アドラーの『本を読む本』のやり方は、知識を求めるには有効だが、楽しみを求めるには向いていない、と本書に書かれていて、なんとなく溜飲が下がった。
断酒と2020年―町田康「しらふで生きる」